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大阪高等裁判所 平成8年(ネ)3394号 判決

主文

一  原判決を次のとおり変更する。

1  被控訴人は、控訴人甲野太郎に対し、四五〇〇万円、控訴人乙山春子に対し、二〇七〇万円、控訴人甲野一郎に対し、三五六二万円及び右各金員に対する平成六年二月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  控訴人らのその余の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、第一、二審を通じてこれを九分し、その一を控訴人らの負担とし、その余を被控訴人の負担とする。

三  この判決は、主文第一項の1に限り、仮に執行することができる。

理由

【事実及び理由】

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人ら

1 原判決を取り消す。

2 被控訴人は、

(一) 控訴人甲野太郎(以下「控訴人太郎」という。)に対し、五四六〇万円及びこれに対する昭和六一年三月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 控訴人乙山春子(以下「控訴人春子」という。)に対し、二一九〇万円及びこれに対する昭和六一年三月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(三) 控訴人甲野一郎(以下「控訴人一郎」という。)に対し、三七一二万円及びこれに対する昭和六一年三月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

4 仮執行宣言

二  被控訴人

1 本件控訴を棄却する。

2 控訴費用は控訴人らの負担とする。

第二  当事者の主張

原判決の「第二 当事者の主張」記載のとおりであるから、これを引用する。ただし、次のとおり付加、訂正する。

一  原判決六頁二行目の「訴えたが、」を「訴え、脈拍も九六となっていたのに、」と、同八頁七行目の「専らその治療が続けられた。」を「同月一一日には、腰椎穿刺により、ウイルス性髄膜炎が最も疑われたが、なお他の治療も併行して行われた。」とそれぞれ改め、同行目の「花子は、」の次に「同月八日、」を、同九行目の「なったが、」の次に「同月一五日、自発呼吸が戻ったので、ICUを退室し、」を、同一一頁四行目の「頭痛、」の次に「発熱、」をそれぞれ加える。

二  同一二頁六行目の「高熱、」の次に「頭痛、」を加え、同一一行目の「六一年」を「六〇年」と、同一三頁一一行目の「髄液検査、頭部CT等の」を「腰椎穿刺による髄液検査、脳炎では、さらに頭部CT、MRI、血清・髄液の抗体価検査等の」とそれぞれ改め、同一五頁四行目の次に行を変えて次項を加える。

「また、嘔吐は、インフルエンザ様感冒やイレウス(腸閉塞症)、薬の副作用でも出現するが、髄膜炎、脳炎による脳圧亢進徴候に由来する中枢神経症状であることも考えられるから、花子の訴えた高熱、頭痛、全身倦怠感などの全身症状と結び付け、髄膜炎、脳炎に罹患していることを疑い、これに対処するべきであった。」

三  同一五頁九行目の「項部硬直」の次に「、ケルニッヒ徴候の有無」を、同一六頁一〇行目の次に行を変えて、次項をそれぞれ加える。

「昭和六一年当時の医学水準の下でも、脳炎の最後の症状である意識障害、痙攣を待って、ヘルペス脳炎であると診断し、治療を開始していては、全くの手遅れである。」

四  同二二頁七行目の「一七〇万円」を「五六〇万円」と改める。

第三  証拠《略》

第四  当裁判所の判断

当裁判所は、被控訴人は、診療上の過失により、花子が、ヘルペス脳炎に罹患していることを疑うのが遅れ、その結果、適当な医療機関に転送する等適切な措置をとることが遅れ、花子を重篤なヘルペス脳炎の後遺症に陥らせ、その後死亡に至らせたものと判断するものであり、したがって、被控訴人に対し、債務不履行を理由に、次の限度で損害賠償義務を負担させるのが相当である。

一  当事者、花子の病状の推移及び診療経過等並びに単純ヘルペス脳炎及び髄膜炎に関する医学上の一般知見に関する説示は、原判決の「理由」一ないし三(原判決二九頁四行目から、四七頁一一行目末尾まで)記載のとおりであるから、これを引用する。ただし、次のとおり付加、訂正する。

1 原判決二九頁五行目の「原告らの身分関係は当事者間に争いがなく、」を「控訴人らが、花子の相続人であることは当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば、控訴人太郎は、花子の夫であり、控訴人春子、同一郎は花子と控訴人太郎間の子供であることが認められる。」と改める。

2 同三四頁三行目の「解熱剤」を「解熱消炎剤」と、同七行目の「嘔吐を繰り返す」を「食欲がないので、食物も飲料水も摂取せず、ただ嘔吐を繰り返すだけで、二日の夕方には洗面器に四分の一くらいの量の水のような液を吐くような」とそれぞれ改め、同一〇行目の「訴えた。」の次に「花子は、通常は自転車通勤であったが、当日は、高熱等の右の身体状態のため、控訴人太郎に自動車で送迎してもらったもので、早退時には、靴を履き変えないで、上履きのまま帰宅するような状況であった。」を、同三五頁一行目の「認めた」の次に「(花子に投与されていた薬剤には、頻脈になるような薬剤はなく、脈拍が九六回であることは、それまで健康な者の場合は、かなりの重症であることを示すものである。)」を、同三六頁一〇行目の「頭痛」の次に「、嘔吐」を、同行から一一行目にかけての「ことから、」の次に「欠勤し、」を、同三七頁五行目末尾に「同夜も、花子は寝付かれない状態で、譫言を言ったりしていたが、ようやく翌五日午前一時ころになって眠った。」を、同三八頁二行目の「意識障碍」の次に「6現症 二月二七日より、吐気、高熱続き、本朝意識稍溷濁」をそれぞれ加える。

3 同四〇頁一行目の「九日、」の次に「項部硬直は三プラスであり、」を、同四一頁六行目末尾に「大阪赤十字病院の担当医は、花子の脳炎の発症は、昭和六一年二月末であると判断している。」を、同四四頁三行目の「ない」の次に「(もっとも、前記のとおり、診療情報提供書には、「二月二七日より吐気、高熱続き、本朝意識稍溷濁」との記載があるが、同記載は、花子の同月二七日からの症状をまとめて一括して記載したものとも窺われるから、右記載から、直ちに、同人に、同月二七日に吐気があったということはできない。)」をそれぞれ加え、同四六頁八行目の「あるとされている」を「あるとされ、その投与時期については、半日でも一日でも早ければ早い程、後遺症が少なくなるとされている」と改める。

4 同四七頁三行目の「右」から四行目末尾までを「右当時、一般開業医では、ヘルペス脳炎の確定診断後に、抗ヘルペス剤を投与することにしていたが、右確定診断には髄液の採取、頭部のCT検査、MRI検査等を経なければならないため、開業医がそこまでして確定診断をすること自体が稀であり、したがって、一般開業医が抗ヘルペス剤を投与することは稀であった。しかし、昭和六一年当時は、アラセナA等の抗ヘルペス剤が発見され、その有効性が広く認識されるようになって、既に二、三年経過した時期であって、一般開業医の間にも右薬剤に対する関心が強かった。」と改める。

二  被控訴人の過失について

1 診療契約の存在及び本件ヘルペス脳炎の症状の発現について

原判決四八頁三行目の「二1(三)」を「二1(一)(3)」と改め、同四九頁五行目の「発現し、」の次に「同月三日、四日には、軽い意識障害も発現し、明確な」を加え、同九行目から一〇行目にかけての「もので、同年三月三日頃には軽い意識障害が発生していた」を削除し、同一一行目から同五〇頁一行目にかけての括弧書部分を「(足立鑑定によれば、右口内炎等と本件ヘルペス脳炎とは無関係であることが窺われるし、控訴人太郎及び被控訴人の供述によれば、被控訴人は、花子に対し、項部硬直の検査を一度もしていなかったことが認められる。)」と改める外、原判決の「理由」四1、2(原判決四八頁二行目から、同五〇頁一行目末尾まで)記載のとおりであるから、これを引用する。

2 被控訴人の過失について

(一) 昭和六一年二月二七、二八日の診療時における過失について

原判決五〇頁四行目の「七日」を「二七日」と改める外、原判決の「理由」四3(一)(原判決五〇頁四行目から同五二頁一行目末尾まで)記載のとおりであるから、これを引用する。

(二) 昭和六一年三月三日、四日の診療時における過失について

花子及び控訴人太郎は、右三月三日の診察時には、被控訴人の投薬にもかかわらず、前記の高熱と頭痛の継続に加え、更に前日の三九度の高熱及び激しい嘔吐状態を訴え、頻脈(一分間に九六回)の所見もあったから、この時点、あるいはこの症状が継続していた四日には、髄膜炎ないしはヘルペス脳炎を疑うべきであったと主張する。

前項で見たように、二月二七、二八日には、発熱と頭痛の症状だけであったから、被控訴人が花子の症状につき、インフルエンザ様感冒を疑い、その処置をして経過観察をしたことに過失があるとまでは認められないが、その後の花子の症状についてみると、

三月三日時点では

(1) 前、前々日から、激しい嘔吐が繰り返されているとの訴えがあった。

(2) 前日には、三九度の熱が出たとの訴えがあり、三日の診察時には、たまたま触診で下がっていたものの、体温計で正確に計測したものではないし、同日までの投薬で熱が下がっていることも考えられ(被控訴人も、熱は、その時、たまたま下がっていただけであると判断したからこそ、当日も、ペレックス(総合感冒剤)、インドメタシン(解熱鎮痛剤)を投与し、同日の夜にも再度インドメタシンを投与した。)、発熱の継続が予想されていた。

(3) かなりの重症状態を疑わせる頻脈が認められた。

三月四日時点では

(4) 発熱、頭痛、嘔吐が継続し、軽い意識障害も出現していた。

のであって、花子の右時点における症状についてみれば、二月二七日以降の投薬にもかかわらず、症状の改善が見られないばかりか、インフルエンザ感冒に随伴する関節痛、筋肉痛、腰痛の訴えは皆無であったこと、髄膜刺激症状の頭痛、高熱に加えて、前々日からは、激しい嘔吐の症状や、軽度ではあるにしても、脳症状の一部とも考えられるような意識障害も出現していたのであるから、医師としては、遅くとも三月四日の時点では、当然、インフルエンザ様感冒だけでなく、ヘルペス脳炎等その他の重大な脳の疾病をも疑うべきであり(足立鑑定)、被控訴人のような一般開業医であっても、機械器具等の設備を要せず、単に患者の身体を持って動かすだけで、容易に行える項部硬直、ケルニッヒ徴候の検査を直ちに実施して、髄膜炎、ヘルペス脳炎に罹患している疑いの有無を判断する義務があるということができ、その疑いがある場合には確定診断のため、及びヘルペス脳炎は予後が悪く、重篤な後遺症を残すことがあるから、その治療に適した高次の医療機関へ転送し、抗ヘルペス剤の投与が受けられるようにするなど適切な措置を講ずべき注意義務があったといえる。しかるに、前記認定の事実によれば、被控訴人は、遅くとも三月四日には、花子について、ヘルペス脳炎等の脳の疾病を疑い、一般開業医でも容易に実施できる右項部硬直等の検査をし、その疑いの有無の判断をすべきであったにもかかわらず、これをせず、ために花子をヘルペス脳炎等の治療に適した高次の医療機関へ転送が遅れ、抗ヘルペス剤などの投与等適切な治療を受けられる時期をも遅れさせたことになったのであるから(抗ヘルペス剤については、早期に投与すればするほど、後遺症が軽くなることは前示のとおりである。)、この点において、被控訴人には、過失があったといえる。

三  損害について

1 原判決の「理由」二1に認定の各事実によれば、花子の死亡と本件ヘルペス脳炎の罹患との間には相当因果関係があると認められるから、被控訴人は、花子の死亡により生じた損害を賠償する義務がある。

(一) 《証拠略》によれば、花子は、昭和一一年五月一六日生まれで、昭和六一年三月当時、八尾市立丙川小学校の教師をしており、定年の六〇歳まで就労し、定年後も六七歳までは就労して収入を得られるはずであったこと、長女の控訴人春子は、昭和六〇年に結婚して松原市内に居住し、長男の控訴人一郎は伊勢市内に下宿して大学に通っていたので、花子は、東大阪市内で株式会社を知人と共同経営している控訴人太郎と二人で暮らしていたこと、しかし、前記認定のとおりの本件ヘルペス脳炎の後遺症により入院したまま退院することができず、昭和六三年三月九日には、体幹機能障害(座位不能)により身体障害者等級表の一級の判定を受け、同年三月三一日に右教員を辞職したこと、控訴人太郎は、花子が意思能力を欠き、被控訴人に対する損害賠償請求訴訟を提起することもできないため、大阪家庭裁判所に花子を禁治産者と宣告する旨申立て、同裁判所は、平成三年四月一九日、花子に対し、本件ヘルペス脳炎の後遺症としての不可逆性の脳損傷があり、自己の行為の結果について合理的な判断をする能力をもたない状態にあって、回復の見込みもないとの理由で、禁治産宣告をし、確定したことが認められる。

(二) 花子の逸失利益

《証拠略》によれば、花子の昭和六〇年分の給与は、六一七万七一六二円であったことが認められ、控訴人らは、花子の六〇歳から六七歳までの逸失利益の計算の基礎を、平成四年賃金センサスによる産業計・企業計・女子労働者の六〇歳から六四歳の平均給与(年額二八八万五〇〇〇円)より低い二五八万七二〇〇円(月額二一万五六〇〇円)、生活費として四〇パーセントを控除して請求しているから、これを前提に、新ホフマン式計算方法により中間利息を控除して、発症時における現価を算定すると、控訴人ら主張のとおり、五九二九万一二八一円となる。

控訴人らは、花子は、発症から昭和六三年度まで病気休暇の扱いを受け、その間に合計九〇三万〇六九〇円の給与の支払いを受けたことを自認し、これを右五九二九万一二八一円から控除した五〇二六万〇五九一円の内金五〇二五万円を逸失利益として請求している。

(三) 花子が支出した治療費

《証拠略》によれば、花子が昭和六一年、六二年に病院に支払った治療費は、一九五万円を下らないことが認められる。

(四) 花子の慰謝料

本件証拠により認められる一切の事情を総合して、慰謝料は、二三〇〇万円をもって相当であると思料する。

(五) これらの合計七五二〇万円の損害賠償請求権につき、控訴人らは、その法定相続分に従って承継取得したと主張するから、控訴人太郎は三七六〇万円の、控訴人春子、同一郎は、それぞれ一八八〇万円の各請求権を取得したといえる。

2 控訴人太郎の請求について

(一) 鑑定費用

《証拠略》によれば、控訴人は、前記禁治産宣告申立事件について、鑑定費用四〇万円を下らない金員を支出したことが認められる。

(二) 慰謝料

《証拠略》によれば、控訴人太郎は、持病の慢性肝炎があるのにかかわらず、花子の本件ヘルペス脳炎の発症以来、午前中は仕事に出掛け、午後は、ほぼ毎日のように花子の病室に行って、献身的に付添介護に当たり、大阪赤十字病院に入院中は、控訴人一郎と交替で泊まり込んで世話をし、花子も、表現能力が殆どない中でも、控訴人太郎に対してだけは、特別の気持をもって対応していた節が窺われる程、接触を密にしていたこと、控訴人太郎自身も、右の介護疲れもあって、平成四年四月に脳梗塞で倒れ、翌年三月まで入院し、その間に共同経営していた会社を辞めざるを得なくなったこと、花子の症状では、自宅療養は不可能であって病院での入院生活を継続せざるを得ない状況であったが、病院側の事情で長期間の入院が許されず、大阪赤十字病院は五年余りも入院を認めてくれたが、その後は、ほぼ半年で転院を迫られ、病院探しにも苦労を重ねたこと等、本件証拠により認められる一切の事情を総合すると、慰謝料三〇〇万円を認めるのが相当であると思料する。

(三) 1記載の請求権三七六〇万円に右鑑定費用四〇万円、慰謝料三〇〇万円を加えると、四一〇〇万円となる。

(四) 弁護士費用

四〇〇万円をもって、相当であると思料する。

3 控訴人春子

1記載の請求権一八八〇万円に、弁護士費用として相当であると判断される一九〇万円を加えると、二〇七〇万円となる。

4 控訴人一郎

(一) 看護治療費等

《証拠略》によれば、控訴人一郎は、花子の治療費等として、昭和六三年、平成二年から平成七年までの間に、合計一一八八万六五四八円を支出し、平成元年の治療費等も支出したが、その支出額を示す証拠はないが、同じ大阪赤十字病院に入院していた、その前後及び近接する年度の支出額に照らして、同控訴人主張にかかる一九三万三九七八円を支出したものと推認することができる。よって、控訴人一郎主張の一三八二万円を看護治療費として認めることができる。

(二) 1記載の請求権一八八〇万円、右看護治療費一三八二万円に弁護士費用として相当であると判断される三〇〇万円の合計三五六二万円が、控訴人一郎の損害であると判断する。

四  以上の次第で、控訴人らの本件請求は、控訴人太郎は四五〇〇万円、控訴人春子は二〇七〇万円、控訴人一郎は三五六二万円及び右の各金員に対する控訴人らが被控訴人に対し、右金員の支払を請求した日(本訴状が被控訴人に送達された日)の翌日である平成六年二月六日から、各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるが、その余の請求は失当である。

よって、これと異なる原判決を右のとおり変更することとし、民訴法九六条、八九条、九三条、九二条、一九六条に従い、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 田畑 豊 裁判官 熊谷絢子 裁判官 奥田哲也)

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